テヅカ・イズ・デッドを読んでみた

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

 内容の把握に困難を覚えたが、こちらの読解力不足に起因するのだろう。内容は多岐にわたるが、ここでは1点だけ。
 第4章における理論的整備、すなわちフレームの不確定性*1によるマンガにおける近代的リアリズム*2の把握はおもしろい。極端に単純化、図式化すると以下の通りと思われる。

  1. 少・青年マンガの「単線的」リアリズム。フレームは確定的で、マンガのコマはカメラアイに類似。すなわち映画的。
  2. 少女マンガの「複線的」リアリズム。フレームは不確定的で、マンガのコマはカメラアイから離れる。すなわち文学的。

 これに対して、どうやら第4章の末尾から第5章にかけて徐々に提示されているのが、第三のリアリズム、キャラのリアリティによるリアリズムのようだ。「身体を欠いたまま感情だけを純粋に媒介/生成するもの」としての「マンガのおばけ」あるいはキャラによるそれは、「文字/言葉が媒介/生成する」近代的主体によるそれとは異なっている。
 伊藤はさらに前者を大塚英志の指摘した「まんが・アニメ的リアリズム」と関連づけているのだが、そうすると、大塚の自然主義リアリズム対マンガ・アニメ的リアリズムという構図を踏襲して議論しているのかどうか、いまいち読解に自信がない。この点は第3章で検討されているキャラ/キャラクターとも繋がってくるが、前者がまんが・アニメ的キャラで後者が文学的な近代的主体という図式化でいいのかしら。

*1:マンガにおけるコマのあり方が一様ではなく、それによって時空間の分節化のなされ方が異なってゆくこと。また同時にコマの枠線が物質性を帯びることを指すこともある。

*2:ここでいうリアリズムはリアリティーを保持する方法というような意味合いで用いられているようだ。ちなみに伊藤はリアリティーを作中のものごとを実際にありそうなことと感じさせる「もっともらしさ」と、作品世界そのものを存在するかのように感じさせる「現前性」の二つに分け、本書では特に後者を検討しているという。