うな重としてのポストモダン

 この前思いついたこと。ポストモダンうな重ではないか?
 近代は例えばうなぎの蒲焼きやご飯、お吸い物などを発明した。ポストモダンはそれを受けて、うな重という様式を作り出す。だから、ポストモダンに対して「うなぎとご飯を一緒にしただけじゃないか!」あるいは「うなぎもご飯ももともとあったものなんだから、うな重そのものの固有性を物質的に示せ!」なんていう批判がでる。確かに、うな重の固有性って言ったって、たれとご飯が混ざったところを示したところで、それは近代だってある。口中調味だ、と言われてしまうかもしれない。
 かといって、うな重は全て要素還元的にうなぎ蒲焼き定食なのだから、うな重は存在しない料理なんだ、単にうなぎ蒲焼き定食の亜流に過ぎないんだっていうのは、やっぱり強弁なんじゃなかろうか。うなぎとたれとご飯との一体感、口の中に入れる前に作り出されているハーモニーがうな重で、つまりは要素の物質的側面じゃなくて、組み合わせの妙なんだと思う。
 そうすると、ポスト・ポストモダンはひつまぶしかしら。