砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない

砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない (富士見ミステリー文庫)

砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない (富士見ミステリー文庫)

 山田なぎさの語りによって、海野藻屑が断片化される話。私にとっては、安易な語りを拒む藻屑と、安易な語りに従順なそれ以外人々(当のなぎさを含めて)の二分法に読めます。従順な語りは一種の成長物語(ビルドゥングスロマン)として読めてしまう、つまりそうした物語の説話構造に対して従順なわけです。別の言い方をすれば、山田なぎさはこの話をビルドゥングスロマンとして語り直している、そうした抑圧をしていると言ってもいいでしょう。
 一方で、描かれている出来事はもっと違う様相を呈していて、佐藤俊樹が言っているように*1、単純な成長物語とは読めない。佐藤は本書のあとがきに「現実(ルビでリアル)がさらりと示され」ていることを指摘し、「子どもも聖域ではない」と述べる。つまり、誰もミステリにおける名探偵のような超越的なヒーローとしては存在できない、そういう「現実」を(批評的に?)指し示しているのが本書の優れた点だということだと、私は読んだ。
 けれども、藻屑はどこにいくのだろう。佐藤の指摘はその通りで、納得もするのだけれど、生き残った人々にとっては、藻屑の事件は成長だったり違ったり、ヒーローになったり、そこから滑り落ちたりするきっかけなんだと思う。でも、藻屑はどうなんだろう。そうして様々な人にきっかけとして利用される=語られるだけで、山田なぎさに「砂糖菓子の弾丸」と呼ばれるだけで、砂糖菓子の弾丸がいかなるものだったのかは、私にはよくわからなかったんだ。
 ビルドゥングスロマンとは違う物語を本書から読み取るのならば、そのきっかけはやはり藻屑だ。けれども、それは山田なぎさの語りの抑圧から抜け出した瞬間の藻屑を捕まえることができれば、という条件が付くのだと思う。抜け出した藻屑は、ひょっとすると構造だって組み替えることができる、一種の中間状態かも知れない*2。もちろん、違うかも知れないけど。

*1:佐藤俊樹「反復するbildungsroman 限定時空のヒーローと母親少女」『ユリイカ』2006年2月号

*2:澤野雅樹「少女 中間的なものへの感受性」『現代思想』2002年8月号